こんにちは、アヤコです。
ツイッターを拝見していると
前向きな意見ばかりでびっくりします。
さて、先日、下記のツイートをしました。
本当にそうですね。
どんなに小さなことでも「自分で決めた」と思うと
自分で人生をコントロールしている感じがあって自己肯定感があがります。もちろん、失敗はイヤなものですが
思ったとおりの結果を出せたときの爽快感と比べたら過程のひとつ。小さな体験を積み重ねて、大きく育てます。 https://t.co/DnqxMx7Glv
— アヤコ@幼児教育で才能を育てる (@momo_days) 2019年7月13日
本当にそうですね。
どんなに小さなことでも「自分で決めた」と思うと
自分で人生をコントロールしている感じがあって自己肯定感があがります。
もちろん、失敗はイヤなものですが
思ったとおりの結果を出せたときの爽快感と比べたら過程のひとつ。
小さな体験を積み重ねて、大きく育てます。
上記について語ります。
今は、こんなこと書いてますが
10~20代くらいの頃は
「何で○○のせいにしちゃいけないの!?実際そうじゃん」
と平気で思っていましたよ、私(笑)
この記事を読むと
「なぜ○○のせい」にしてはいけないのか。その構造が理解できます。
理不尽に対する怒りは誰もが持つもの
「人のせい」「お金のせい」に限らず
「○○のせいにしないの!」と怒られた経験はありませんか?
私はあります。
たぶん、盛りだくさんで(汗)。
「正当な理由があるのに、何で○○のせいにしちゃいけないんだよ~」と、長い間、理由が分からずにブーたれていました。
ダメなものはダメ。怒りOK
いろいろ理解してきた今でも、理不尽は許容できかねます。
ダメなものはダメでしょ。
それは今も変わらないです。
「許す」とは「仕返ししない」ということなだけで
決して、その行為を受け入れるということではないです。
なので「怒り」自体を否定することはないです。
変にいい人ぶって「事実を歪めて」理解しようとするから解決しない。
(この辺を書くと長くなるので今回は割愛。)
ただね「○○のせいにしてはいけない理由」が「構造」的にちゃんと理由がありました。
当時から、ブーたれながらも模索するあたり、我ながら構造オタクです(笑)
人は「○○のせい」にした瞬間、「○○の奴隷」になっている
「○○のせい」とは、言い換えると
「私の人生は、○○によって決められています」と、奴隷宣言を自らするのと同じこと。
だって、その意識でいるということは
○○によって、人生が左右されている(支配されている)のですから。
いえ、奴隷でも、本人がOKならいいのです。
自分の好きなように人生を作ったらいいのですから。
でも、多くの場合、無意識の選択になっているのではないでしょうか。
「○○のせい」にしたくなったら、私は次の言葉を念仏のように呟くようにしています。
「電柱が高いのも、ポストが赤いのも、雪が降っても、自分の責任」
「この世界は、すべて自分の投影」であることを宣言する
どのような言葉でもいいのですが
与えられたようにみえる環境であっても、すべて自分が選んだことの積み重ねであることを自覚します。
もちろん、自分の心の現在地によって
過剰に自己責任になりそうなときはストップしましょうね。
前に別の記事で書きましたが
そもそも、そのようにプログラミングされた自覚がないわけです。
(幼少期のときのそのようにプログラミングされたから)
もちろん、気づいたタイミングから自分で再プログラミングしたらいいわけですが、気づくまでやりようがないですよね。
だから、あなたのせいではない。
ただ、他の誰かも、よっぽど意図的にあなたを悪くしようとしたのでない限り
その人のプログラミングの範囲の中でよかれと思ってやったことかもしれません。
そうすると、もはや誰を責めたらいいのかわからないですし
責めている時間があるなら状況を変えることにエネルギーを変えたほうが現実が早く変わります。
とっとと現実を変化させよう
別の言い方をすると、これが「中心点をとる 」ということです。
シンクロニシティ を「起こす」のも、ここが大きなポイントです。
当然、自分次第で(謎解きをすることで)、その階層(今いる環境)を移動することは可能 です。
そこに留まるも、場を移動するも、決めているのは、すべて自分自身。
よく躾で、「人は人、自分は自分(うちはうち、よそはよそ)」とか
「○○のせいにしない!」とか言われるけれど
誰が初めに気づいたのか知らないけれど、それに気づいてた昔の人はすごいと思う。
まとめ
自ら奴隷宣言をするのはやめましょう。
大きかろうが小さかろうが、どんな実力からのスタートだとしても
あなたは今、この瞬間から、自由の一歩を踏み出すことができる。