こんにちは。アヤコです。
子育てするにあたって「褒めるのと、叱るのは、どっちが正解?」と悩むときありますよね。
結論からいえば「どちらもその意味をわかって使い分け」です。
それだと答えになっていないと思うので
「叱るのは、いろいろと難しいので、褒める方がやりやすい」です。
ただ、褒めるにあたって注意すべき点があります。
先日、下記のツイートをしました。
おはようございます😊☕️
子育てで「ほめない方がいい」というのは、根っこでは本当。
承認欲求ベースで育てると
「人に認められる」を基準に行動するように。評価がどうでも「自分がやりたいからやる」
「人に従わないと生きられないタイプ」に仕上がる可能性。
自分の意思で従うのとは違う。
— アヤコ@幼児教育で才能を育てる (@momo_days) 2019年9月9日
子育てで「ほめない方がいい」というのは、根っこでは本当。
承認欲求ベースで育てると
「人に認められる」を基準に行動するように。
評価がどうでも「自分がやりたいからやる」
「人に従わないと生きられないタイプ」に仕上がる可能性。
自分の意思で従うのとは違う。
これについて掘り下げていきます。
叱っていいときはどんなとき
基本的に日常生活で、叱っていいときは少ないと思います。
使っていいときは大きく2つ
- 目的があって狙って叱る(相手にそれ相応の強度があるとき)
- 緊急性が高いとき
「叱る」というのは劇薬です。毒にも薬にもなります。
相手の強度に応じて使うから効果がでます。
目的があって狙って叱る
気持ちがゼロより上にあるときは
叱ることで「何をー、やってやる!」となることもあると思います。
ただ、その状態を常に持ち続けられるかというと難しいと思います。
何かで「成果を出す」には、毎日コツコツ続ける必要があることがほとんどです。
一時的なやる気だけでは足りないです。
ですので、叱るを基礎にすると足りないです。
相手の状態がよいときで、かつ勢いをつけたいとき
短期の方向付けに使うのはありだと思います。ただ、あくまで短期です。
あと、極端な例ですが
自分の意思でどうにも動けなくなっているときで、叱り付けてでも動かさなきゃいけない場合。
こういう場面は、叱ることもあると思いますが、そもそもの根本でその状態を解消する方が優先かと。
ですので、日常の範囲で使うには、瞬間的なカンフル剤として使うか、特殊な事情がある場合という限られた範囲になります。
「叱る」必要性がでてきた場合、そもそもの部分や状態の見直しが必要だと思います。
緊急性が高いとき
危険がせまっているときや、危ないことをしたときですね。
その場合も、自分の不安を相手にぶつけるのではなくて、余分な枝をバツッと切っておわりにするイメージです。
時間でいったら1分。
それ以上は、自分の不安の解消をしていると思います。
1分叱ったら、あとはケロッとしているくらいな感じです。
褒めるのは一見良さそうですが基礎に置くのはNG
では「褒めたらいいのか」というと日常にするなら、こちらです。
ただ、ここも「似て非なる」の落とし穴にならないか要注意です。
褒めることで親の思うように子供をコントロールしようとしていませんか?
この一点を確認したいです。
親の代理戦争をさせようとしていませんか?
自分の無念を子供で晴らそうとしていませんか?
自分の無念は、自分で晴らしましょう。
子供には子供の人生があります。
褒められると、自分の「承認欲求」が満たされます。
これはもう本能として誰もが持っていることなので是非ではなくて、そういうものです。
ですので、褒めるを使うとは、ある意味、あらがえないものを使うということになります。
褒められるのがうれしいのは自分が受け入れられた感があるから
子供はもう本能で「親に受け入れられたい」という切なる願いをかかえています。
だから、親に褒められたら、「自分はいていいんだ」とうれしいわけです。
大人だって、周りに受け入れられたらうれしいですよね。
ただ、能力で褒められても一時的なものです。
自分の存在ベースで受け入れられている感がないと、心の空虚感を埋めるべく行動するようになります。
「何かをしたから褒める」「何かができたから褒める」でもいいのですが
それだけだと「じゃあ、やらない、できない自分には価値がないの?」という落とし穴にはまります。
自分で物事を決める大人にするなら褒めるはNG
褒められることが行動原理に組み込まれてしまうと、評価されることに左右されて生きるようになります。
社会で生きるには、一人ではないので評価を気にする必要はもちろんあります。
仕事をするにしたって、相手の評価(=売上)があります。
だからこそ、評価を根っこに置いてはいけないのです。評価は枝葉です。
褒める(評価)を基準にするとは
- 人に操られやすくなるということです。
- 人の顔色をうかがうようになるということです。
そういう大人が現代社会で多いような気がしませんか?
じゃあ、そうやって相手の目を気にして動いたところで、誰が責任をとるのでしょう?
大人の人も今からだって「自分のやりたい」を小さく叶えるところから始めたら十分です。
承認欲求は使い方次第でOK
極端から極端に走るタイプだと「じゃあ、一切、褒めない」的になると思うのですが、褒めてはいけないのではなくて「基礎に置いてはいけない」です。
人からの評価を行動の基礎に置いてしまうと、人に左右されるようになるというところがポイントなだけで、評価されてうれしい気持ちすら前に進む原動力にしたらいいです。
「やりたい」を基本に
いかなるときも、自分の内側から湧き上がる「やりたい」をきちんと見つめましょう。
※「それ、本当にやりたいことですか?」
というのを見極めることが別途、大切ですが、長くなるのでここでは省略します。
人が評価しようがしまいが、自分がよしと思うことをやる
人によく思われたいからゴミを拾いますか?
フードコートの食事のあと、テーブルを整えるのは、人によく思われたいからですか?
自分なりのモノサシがあって、その中での行動だと思います。
そして、やはり世の中、「類友」です。
何をよしとするかで、集う人も変わりますし、環境も変わりますし、人生が変わります。
今ある現状は、それを良しとしている自分がいる
これは、けっこうなキーワードです。
どんなに現状に不満があるように見えても、なんだかんだでメリットがあるから現状を維持しています。
見たくない現状を見ないで済ませていませんか。
個別の電話相談だと一人ひとり謎を解除するお手伝いができるのですが、字面だとこんな表現です。
「やりたいことをやっている自分」を受け入れられるのがしあわせ
あまり難しく考えなくても、まずは自分を取り戻すトレーニングとして
自分の「やりたい」を小さくでも大切にするところから始めてはいかがでしょうか?
子供に対しては、なるべく「やりたい」を試すお手伝いをしつつ
すぐにできない場合は、あきらめさせることにエネルギーを使うのではなく
「どうしたらできるのか」を話したらいいと思います。
どうしたいのか
どうしたらできるのか
この2つをひたすらです。
お金、時間をはじめ、いろんな条件があると思います。
それらをどうやってクリアしていくのか、そのためのエネルギーをかけるほどにやりたいことなのか。
子供のうちから「やりたい」をベースにトレーニングしていくことで、大人になって自分のやりたいことを自分で問題解決できるようになっていくと思います。